葵祭(5月15日)(雨天順延)「京都御所」を出発し、下鴨神社を経て上賀茂神社まで約8キロを練り歩きます。
京都御所(出発10時30分)→下鴨神社(到着11時40分・出発14時20分)→上賀茂神社(到着15時30分)
(賀茂祭)
葵祭は、平安京建都(794)の百年以上も前から上賀茂、下鴨、両神社の祭礼として行われ『賀茂祭』と呼ばれていました。
今でも流鏑馬(やぶさめ)に見られるように、当時は勇壮で荒っぽい祭りで、その荒々しさを見るために近隣近郷から多くの人馬が集まる有名な祭礼でありました。
平安時代に入り、嵯峨天王の時代になると、賀茂祭は、石清(いわしみず)八幡宮の岩清水祭や春日祭とともに三大勅祭(ちょくさい、国営の祭)となり、岩清水祭が『南祭』と呼ばれるのに対して、賀茂祭は『北祭』と呼ばれるようになり、一層、著名な祭となっていき、祭といえば葵祭のことを指したといいます。
この頃から、賀茂祭は雅びやかな祭りに変化していき、多くの人が美服、美車で参加し、都大路を賀茂神社にむけて行列するようになりました。
その後、この行列(パレード)は、一層、華美さを増し『源氏物語』『今昔物語』『徒然草』などの多くの書物に登場するようになります。
(葵祭)
華麗な服に、美しく飾られた車(牛車、ぎっしゃ)、頭にカモアオイ(フタバアオイ)の花を挿して、華々しく行われていたパレードですが、やがて中世に入ると、財政難により、華やかさは、だんだんと失われていき、ついには1467年から11年間続いたの応仁の乱によって完全に中止となります。その後、再開されたのは、それから二百年以上経った元禄七年(1694)のことであり、この時から『賀茂祭』は『葵祭』と呼ばれるようになりました。
(葵祭)
明治になり、東京遷都で一旦すたれた葵祭ですが、明治17年(1884)から再びおこなわるようになり、この時から5月15日が祭日となりました。第二次世界大戦後は昭和28年から再開されています。
祇園祭(山鉾巡行、7月17日)
17日巡行コース四条烏丸(午前9時出発四条河原町(午前9時50分)
河原町御池(午前10時30分)烏丸御池(11時00分)
(祇園祭)
"コンコンチキチン、コンチキチン”祇園囃子が町中に流れる山鉾巡行のころ、京の梅雨は明ける。今では「八坂神社」の「祇園祭」として知られていますが、明治維新までは「祇園社」の「祇園御霊会」、略して「祇園会(ぎおんえ)」と呼ばれていました

平安時代前期、京で疫病が流行した際、広大な庭園だった神泉苑(中京区)に、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神(スサノオノミコトら)を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされる。
江戸時代にも火災に見舞われたが、町衆の力によって祭りの伝統は現代まで守られている。

毎年、各山鉾町では、7月1日の「吉符入り」で幕を開け、2日には山鉾巡行の順番を決める「くじ取り式」が京都市役所で行われる。10日ごろから鉾建てが始まり、12日ごろには鉾の「曳初(ひきぞ)め」がある。15日の宵々山、16日の宵山を経て、17日は、祇園囃子(ばやし)にのって山鉾が京のメーンストリートを巡行。

ちまき
祇園祭の「ちまき」は、厄除けのために各山鉾町で売られている。
ちまきが厄除けの役割を担っているのは、八坂神社の祭神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)が旅の途中でもてなしてくれた蘇民将来に対し、お礼として「子孫に疫病を免れさせる」と約束し、その印として「茅(ち)の輪」を付けさせたのが始まりと言われる。
授かったちまきは、家の門口につるし、翌年の祇園祭で新しいちまきと取り替えるまでの1年間、厄除け・災難除けとして重宝されている。
時代祭(10月22日)
(雨天順延)
京都御所(12:00)を出発。烏丸御地・市役所前・三条京阪前を経て、平安神宮(14:40)に到着予定。
(時代祭)
1895年(明治28年)、平安遷都1100年を記念して平安神宮が創建された。その時、平安神宮の大祭、建造物、神苑の保存のため、市民により平安講社が組織され、記念事業として時代祭が始まった。祭が行われる10月22日は、桓武天皇が794年(延暦13)に長岡京から平安京に都を移された日。